ヴィパッサナ瞑想と人生
「人生の最終日は、丸一日
ヴィパッサナ瞑想をして過ごしたいわ。」
昔、何かの質問で
「人生の最終日は何をして過ごすか」
と聞かれたとき、私は一瞬間を置いて
こう答えたのが、なぜか記憶に残っています。
2005年に、京都のセンターにて初めて参加した
10日間のヴィパッサナ瞑想。
過去の価値観が大きくひっくり返る程の
衝撃を体験したと同時に
「これが今まで私が求めていたものの答えか!」
という手応えも感じたのを、はっきりと
感覚のレベルで覚えています。
ヴィパッサナ瞑想。
身体の「感覚」を観察し続けることによって
自身の、そして宇宙の本質を知る瞑想法。
それはまた、量子力学レベルでの
生命の探求。
「私というもの、私のモノというもの」
と呼ばれるものは、実は何もない。
私とは実は、超高速で生まれては消える
「微細な粒子」の集まりに過ぎない。
心というのは、凄まじい早さで
「渇望」「嫌悪」という反応を繰り返していて
その反応のパターンに執着していることで
自己が形成される。
そして、その反応をやめることで
心が真に自由になりうる。
当時、それまで「瞑想」と名の付くことは
ほとんどやった事のなかった私が
これらのようなことを感覚のレベルで
気づく事に至った、人生初の瞑想体験。
このヴィパッサナ瞑想、10日間という期間中は
誰ともコミュニケーションをしてはならず
(非言語的なコミュニケーションも含む)
本を読んだり、手記を書いたり、ヨガや
他の瞑想法をしたりする事も禁じられ
ただひたすら、静かに自己の内面に起こる感覚を
観察し続けます。
10日間といっても、例えば何かの
デトックスサプリメントのように
10日後には内臓が全てクリーンになっているはず
といったものではなく、あくまでも
一生をかけて歩む真理の探究の道の
最初の一歩に過ぎません。
最初の一歩に過ぎないと言っても
それは今後、愛と平和と調和に満ちた人生を
送る上での、とてもとても大切な最初の一歩。
潜在意識に染み付いた
自身の気づいていない反応のパターンを
根こそぎ浄化するこの瞑想法は
実はブッダが自身の体験から悟ったもの。
これは古代インドから実践されているものです。
どの仏教の宗派にも属さず、どの宗教の人をも受け入れる
とてもユニバーサルな瞑想法であり
実践による解脱への道を説いている
永遠の教えでもあります。
この10日間のコースは、その昔から受け継がれた
ブッダの教えが、ミャンマー出身のインド人
ゴエンカ師によって、とても分かりやすく
そして深く、明確に教えられています。
(詳しくはこちらをご覧下さい)
ゴエンカ師は今年の9月末に死去されたのですが
その教え自体は永遠に消え去ることなく
これからも引き続き、私たちを
「真の内なる平和」へと導き続けてくれるのです。
このコースのさらに素晴らしい点は
コースは全て参加者からの寄付金のみで
成り立っている、ということ。
決してビジネスとして行われてはいません。
瞑想の指導者でさえ無報酬、純粋な心で
奉仕しています。
参加者は滞在中、寝るところと食事を与えられ
瞑想だけに集中できる環境が用意されるので
お金のない人でも、希望者は誰でも参加できます。
つまり、他の人達からの施しのよって
コースに参加できるのです。
そしてコース終了時には、自分が払えるだけの寄付金を
センターに施すことで、今後参加する人達を支える
という循環が成り立っています。
ヴィパッサナ瞑想によって、これまでに沢山の人が
自身の作った心の牢獄から自由になっていますが
この瞑想法はさらに、世界各国の刑務所でも
プログラムの一環として行われ
沢山の囚人たちが心の浄化を体験し
刑務所内外で慈愛に満ちた新たな生き方を送っています。
Dhamma Brothersというドキュメンタリー映画には
全米でワーストと言われる、アラバマ州にある
とある刑務所を舞台とし
周囲のキリスト教派による抑圧の中
ゴエンカ師による10日間のヴィパッサナ瞑想が
刑務所内のプログラムに全米で初めて取り入れられた
様子が収められています。
ヴィパッサナ瞑想後の彼らの表情や心の在り方
人間としての純粋さにとても感銘を受け
初めてこの映画を見た時は、映画館内にいた
ほとんどの人と一緒に、私も涙しました。
私は今回、実に8年ぶりとなる
10日間コースへの参加となりました。
そこでの経験は、非常に「感覚レベル」の事なので
正直文字にするのが難しく
ブログに書くかどうするか悩んだのですが
やはり書ける範囲で書いてみようと思います。
(続く)