(前回の続きです)
リレーショナル・マインドフルネスにおいて大切な
「わたし(I)」から「わたしたち(We)」への意識のシフトと、
注意を向けて「深く聴く」ということ。
エデン曰く、一人でやるマインドフルネス瞑想において
<呼吸>が意識を「今ここ」にとどめるための錨になるように、
関係性におけるマインドフルネスにおいては、
<深く聴く>という行為そのものが錨になってきます。
以下に、相手とのマインドフルなつながりを育む中での
「深く聴く」というプロセスについて書いてみます。
1 「今ここ」に意識を向けるという意図をもつ
相手とより深く、親密につながるためにはまず、
意識を「今ここ」に留めておくという意図を持つことから
始まります。
「この対話に参加しようとしている<わたし>は
どんな<わたし>だろう?」
「自分がこの場に持ってきたい ‘繋がりの質’は
一体どんなものだろう?」
こんな問いと共に、リラックスして呼吸に意識をむけ、
自分の内側で起こっていること(体、心、感覚レベル)に
「今ここ」で意識を向けてみます。
そして、自分と相手が今ここで体験することを、一瞬一瞬、
好奇心と共に真っさらな目で受け止めようとする自分に
呼吸と共に気づいているようにします。
この時点でもし、相手を変えたい、こういう結果に導きたい、
正しくありたい、称賛されたい、、、などといった
<小さな自己(分離した自己)>が作る意図が
そこに混じっていることにも気づいたら、呼吸と共に
それらも観察して、そこから脱同一化しておくようにします。
2 「相手の世界観」を通して、深く聴く
相手との会話においては、リラックスした状態を保ったまま、
自分の意識を「呼吸」から「相手の話を聴く行為」へと
シフトさせていきます。
そして、純粋な好奇心とともに相手の言葉を聴きつつ、
表面上の言葉を超えた、相手の表情や声、エネルギー、
ちょっとした仕草などからも、相手が本質的に伝えたいことを
「相手の世界観・価値観」を通して受け止めようとします。
心の奥で推測しようとしたり、批判しようとしたり、
途中で他のことに意識を取られたり(SNS、メールなど)、
マルチタスクをしながらではなく、自分の存在全てで、
相手の伝えたいことを聴いていきます。
4 自分自身の心に深く聴く
相手の世界観・価値観を通して、相手を深く聴こうとする時、
自分自身の<小さな自己>が、むくむくと顔を出し、
自分の主観によって相手を推測、否定、批判しようとしたり、
相手の主観を「自分自身にとっての真実」だとして
鵜呑みにしようとすることもありえます。
ここでできることは、相手の言葉を受けたあとは
一旦止まって、呼吸に意識を戻した上で
自分自身に以下のような問いをなげかけ、深く聴いてみること。
「今湧き上がっている自分の思考は、客観的な真実だろうか?
それとも、<小さな自己>の癖だろうか?」
「今相手から聞いていることは、客観的な真実だろうか?
それとも、相手の主観的な物語だろうか?」
「今聞いたことに、どう意味づけしようとしているだろう?」
「今、自分の身体、心、感情が感じているのはなんだろう?」
「この自分の心の痛みはどこからきているのだろうか?」
「この不快な感情を好奇心と共に受け入れたらどうだろう?」
「どうしたらさらにリラックスしてこの瞬間に耳を傾けられるだろう?」
「私の中に、抵抗感が起こっていないだろうか?
起こっているなら、どうしたらそれを批判せず受け止められるだろう?」
この時、意図的に答えを探し出そうとするかわりに、
気づきの声が内側から自然と湧き上がってくるのを
好奇心と共に、リラックスして待ってみます。
そして、気づくたびに、呼吸に注意をむけつつ、
<小さな自己>のさらに深い部分にある静けさに
気づくことができるかみてみます。
ここでひとつ、意識しておきたいことは
「心のおしゃべり」と「気づきの声」は違うということ。
前者は、<分離の意識(小さな自己)>からくるもので、
後者は、<つながりの意識(真の自己)>によるもの。
なので、自分自身に問いを投げかけるときには、
このあたりの違いを嗅ぎ分けることも大切になってきます。
5 状況に向き合う
相手とのやりとりの中で、<小さな自己>の反応として、
不快感や痛みの感覚、怒りや恐れなどの感情がわいても、
そこから目を背けようとしたり、逃げようとするかわりに、
それに気づき、そこにとどまるようにします。
目をを背けたり、逃げたりすることは、
分離の意識を助長してしまう行為。
相手の言葉や態度をパーソナルに受けとる代わりに、
(自分に向けられたものとして解釈する代わりに)
上に書いた自分自身への問いと共に、内側に湧き上がる声に
思いやりと好奇心を持って、呼吸と共に耳をすまします。
そうすることで、<小さな自己>の中にある痛みの引き金や、
思考の癖、感情による反応のパターンなどに気づいていきます。
痛みの引き金や過去のトラウマは、自分自身の気づきを通して
癒されるきっかけがもたらされることも多々あります。
こうして、<小さな自己>による思考や感情のパターンを
責任をもって引きうけることができれば、対話のプロセス自体も、
より意識的で健全なものになっていきます。
6 包み隠さないこと、慈愛からの行動
相手との本物の深いつながりは、どんな状況においても、
<小さな自己>の思考や感情のパターンに気づき、
それに責任をもちつつ、その奥にある自分の弱さや繊細さをも
勇気をもって正直に伝えていくことで、どんどん深まります。
(詳しくはここにも書いています)
その上で、最終的には<小さな自己>の声を超えて、
どうすることが「お互い」にとっていいのかを、
つながりの意識から、自分に深く聴いてみます。
それは、相手に寄り添い共感することかもしれないし、
勇気をもって何かを相手に伝えることかもしれないし、
何か特定のことを行動に移すことかもしれないし、
逆説的だけれど、一緒に居ないという決断することかもしれない。
またここでは、何かを伝えたり、行動に移したりするにあたり、
相手への慈愛を含んだ正直さや、「タイミング」への配慮なども
とても大切なこと。
「正直さ」を盾に、自分の感じたことをその場でぶちまけたり、
意図的に尖った意見を言ったりするというのは、
相手への慈愛を欠いた「分離の意識」のしわざで、
自分自身の課題にうっかり相手を巻き込むことになりがち。
そうならないためにも、自分がしようとしていることの
深い意図や、意識の状態に気づいているようにします。
(これについては次のページに書きます)
意見が対立するとき
ここまでで、リレーショナル・マインドフルネスのプロセスを
みてきましたが、どれだけマインドフルな意識を持って、
目の前の人といい関係性を築こうと努力しても、
日常において、相手と分かり合えない状況は、
どうしても起こってしまいがち。
世の中には多様な人がいて、学びや成長の度合いも違えば、
異なる文化や時代背景の中で培われた独自の見方もあったり、
性格そのもののタイプも違っているので、慈愛を持って
マインドフルな対話をしたからといって、残念ながら
本当の意味で、全ての人と分かり合えるようになるのは
不可能に近いもの。
意見の対立が生じるときには、たいてい二人ともが、
自分が「客観的に正しい」と信じている状態なのだけど
それは実は、主観同士、<小さな自己>同士のせめぎ合い。
エデン曰く、リレーショナル・マインドフルネスを学んでも、
対立そのものは、生きている以上避けられないけれど、
そういったときは、以下のような問いを、思いやりと共に
自分自身になげかけることもできます。
「この人(この状況)の何が、自分にとってこんなにも難しく、
反発を感じるのだろう?」
「この人(この状況)に対して、心と身体はどんな感じがするだろう?」
「この反応から一歩ひき、広がりのある<つながりの意識>に入れるだろうか ?」
「相手や状況に対して、自分の何かを投影していることはあるだろうか?」
「自分自身に理解と優しさを向けるのと同じように、相手や状況に対しても
理解と優しさを向けることはできるだろうか?」
そうして、湧き上がってくる心の声や、身体の感覚などに対して
リラックスして注意を向けてみます。
禅において大切にされているのが、
「わからなさに自分を明け渡す」ということ。
「分かり合えない」ということを受け入れた上で、そこから
相手の人生の物語の背景や、分かり合えないもの同士からなる
「わたしたち(We)」の領域で起こっていることに対して
慈愛を持てるような可能性を探っていきます。
折り合いをつけるというのは、ネガティブなものではなく、
一人では到達できない視点・在り方にたどり着くための
創造的なプロセスで、その根底には、相手と創り上げる
「わたしたち(We)」の領域を大切にしたいという想い。
そのプロセスそのものを大切にし、そこから、
共にあるための可能性や、新しいあり方を見つけていきます。
私が今回、個人的に大切にしたいなぁと思った学びは、
相手と本当の意味で深くつながりたい時は、
「わかり合いたい」という想いだけにとらわれず、
「わからなさ」そのものを大切にする、ということ。
過去の経験では、「分かり合えるはず」という期待のせいで、
おたがいに意見の押しつけや勝手な推測、苛立ちなどがおこり、
関係がぎくしゃくしてしまった、ということもありました。
「自分にはわからない世界がある」ということを
お互いが受け入れて初めて、自分の心の声を脇に置いて、
好奇心を持って、謙虚に相手の言葉に耳を傾けることができるもの。
私の主観では捉えきれない、この複雑で多様な世界を
相手の主観が、別の角度から捉えてくれているからこそ
自分が認知できる世界が、より豊かになっていく。
分からないけど愛する、のではなく、
分からないから愛する。
リレーショナル・マインドフルネスを通して、
あらためて、こういったあり方を大切にしたいなぁと
気づきました。
(つづく)
リレーショナル・マインドフルネス(4)<深く聴くこと>
/カテゴリ: 学びと活動の記録(前回の続きです)
リレーショナル・マインドフルネスにおいて大切な
「わたし(I)」から「わたしたち(We)」への意識のシフトと、
注意を向けて「深く聴く」ということ。
エデン曰く、一人でやるマインドフルネス瞑想において
<呼吸>が意識を「今ここ」にとどめるための錨になるように、
関係性におけるマインドフルネスにおいては、
<深く聴く>という行為そのものが錨になってきます。
以下に、相手とのマインドフルなつながりを育む中での
「深く聴く」というプロセスについて書いてみます。
1 「今ここ」に意識を向けるという意図をもつ
相手とより深く、親密につながるためにはまず、
意識を「今ここ」に留めておくという意図を持つことから
始まります。
「この対話に参加しようとしている<わたし>は
どんな<わたし>だろう?」
「自分がこの場に持ってきたい ‘繋がりの質’は
一体どんなものだろう?」
こんな問いと共に、リラックスして呼吸に意識をむけ、
自分の内側で起こっていること(体、心、感覚レベル)に
「今ここ」で意識を向けてみます。
そして、自分と相手が今ここで体験することを、一瞬一瞬、
好奇心と共に真っさらな目で受け止めようとする自分に
呼吸と共に気づいているようにします。
この時点でもし、相手を変えたい、こういう結果に導きたい、
正しくありたい、称賛されたい、、、などといった
<小さな自己(分離した自己)>が作る意図が
そこに混じっていることにも気づいたら、呼吸と共に
それらも観察して、そこから脱同一化しておくようにします。
2 「相手の世界観」を通して、深く聴く
相手との会話においては、リラックスした状態を保ったまま、
自分の意識を「呼吸」から「相手の話を聴く行為」へと
シフトさせていきます。
そして、純粋な好奇心とともに相手の言葉を聴きつつ、
表面上の言葉を超えた、相手の表情や声、エネルギー、
ちょっとした仕草などからも、相手が本質的に伝えたいことを
「相手の世界観・価値観」を通して受け止めようとします。
心の奥で推測しようとしたり、批判しようとしたり、
途中で他のことに意識を取られたり(SNS、メールなど)、
マルチタスクをしながらではなく、自分の存在全てで、
相手の伝えたいことを聴いていきます。
4 自分自身の心に深く聴く
相手の世界観・価値観を通して、相手を深く聴こうとする時、
自分自身の<小さな自己>が、むくむくと顔を出し、
自分の主観によって相手を推測、否定、批判しようとしたり、
相手の主観を「自分自身にとっての真実」だとして
鵜呑みにしようとすることもありえます。
ここでできることは、相手の言葉を受けたあとは
一旦止まって、呼吸に意識を戻した上で
自分自身に以下のような問いをなげかけ、深く聴いてみること。
「今湧き上がっている自分の思考は、客観的な真実だろうか?
それとも、<小さな自己>の癖だろうか?」
「今相手から聞いていることは、客観的な真実だろうか?
それとも、相手の主観的な物語だろうか?」
「今聞いたことに、どう意味づけしようとしているだろう?」
「今、自分の身体、心、感情が感じているのはなんだろう?」
「この自分の心の痛みはどこからきているのだろうか?」
「この不快な感情を好奇心と共に受け入れたらどうだろう?」
「どうしたらさらにリラックスしてこの瞬間に耳を傾けられるだろう?」
「私の中に、抵抗感が起こっていないだろうか?
起こっているなら、どうしたらそれを批判せず受け止められるだろう?」
この時、意図的に答えを探し出そうとするかわりに、
気づきの声が内側から自然と湧き上がってくるのを
好奇心と共に、リラックスして待ってみます。
そして、気づくたびに、呼吸に注意をむけつつ、
<小さな自己>のさらに深い部分にある静けさに
気づくことができるかみてみます。
ここでひとつ、意識しておきたいことは
「心のおしゃべり」と「気づきの声」は違うということ。
前者は、<分離の意識(小さな自己)>からくるもので、
後者は、<つながりの意識(真の自己)>によるもの。
なので、自分自身に問いを投げかけるときには、
このあたりの違いを嗅ぎ分けることも大切になってきます。
5 状況に向き合う
相手とのやりとりの中で、<小さな自己>の反応として、
不快感や痛みの感覚、怒りや恐れなどの感情がわいても、
そこから目を背けようとしたり、逃げようとするかわりに、
それに気づき、そこにとどまるようにします。
目をを背けたり、逃げたりすることは、
分離の意識を助長してしまう行為。
相手の言葉や態度をパーソナルに受けとる代わりに、
(自分に向けられたものとして解釈する代わりに)
上に書いた自分自身への問いと共に、内側に湧き上がる声に
思いやりと好奇心を持って、呼吸と共に耳をすまします。
そうすることで、<小さな自己>の中にある痛みの引き金や、
思考の癖、感情による反応のパターンなどに気づいていきます。
痛みの引き金や過去のトラウマは、自分自身の気づきを通して
癒されるきっかけがもたらされることも多々あります。
こうして、<小さな自己>による思考や感情のパターンを
責任をもって引きうけることができれば、対話のプロセス自体も、
より意識的で健全なものになっていきます。
6 包み隠さないこと、慈愛からの行動
相手との本物の深いつながりは、どんな状況においても、
<小さな自己>の思考や感情のパターンに気づき、
それに責任をもちつつ、その奥にある自分の弱さや繊細さをも
勇気をもって正直に伝えていくことで、どんどん深まります。
(詳しくはここにも書いています)
その上で、最終的には<小さな自己>の声を超えて、
どうすることが「お互い」にとっていいのかを、
つながりの意識から、自分に深く聴いてみます。
それは、相手に寄り添い共感することかもしれないし、
勇気をもって何かを相手に伝えることかもしれないし、
何か特定のことを行動に移すことかもしれないし、
逆説的だけれど、一緒に居ないという決断することかもしれない。
またここでは、何かを伝えたり、行動に移したりするにあたり、
相手への慈愛を含んだ正直さや、「タイミング」への配慮なども
とても大切なこと。
「正直さ」を盾に、自分の感じたことをその場でぶちまけたり、
意図的に尖った意見を言ったりするというのは、
相手への慈愛を欠いた「分離の意識」のしわざで、
自分自身の課題にうっかり相手を巻き込むことになりがち。
そうならないためにも、自分がしようとしていることの
深い意図や、意識の状態に気づいているようにします。
(これについては次のページに書きます)
意見が対立するとき
ここまでで、リレーショナル・マインドフルネスのプロセスを
みてきましたが、どれだけマインドフルな意識を持って、
目の前の人といい関係性を築こうと努力しても、
日常において、相手と分かり合えない状況は、
どうしても起こってしまいがち。
世の中には多様な人がいて、学びや成長の度合いも違えば、
異なる文化や時代背景の中で培われた独自の見方もあったり、
性格そのもののタイプも違っているので、慈愛を持って
マインドフルな対話をしたからといって、残念ながら
本当の意味で、全ての人と分かり合えるようになるのは
不可能に近いもの。
意見の対立が生じるときには、たいてい二人ともが、
自分が「客観的に正しい」と信じている状態なのだけど
それは実は、主観同士、<小さな自己>同士のせめぎ合い。
エデン曰く、リレーショナル・マインドフルネスを学んでも、
対立そのものは、生きている以上避けられないけれど、
そういったときは、以下のような問いを、思いやりと共に
自分自身になげかけることもできます。
「この人(この状況)の何が、自分にとってこんなにも難しく、
反発を感じるのだろう?」
「この人(この状況)に対して、心と身体はどんな感じがするだろう?」
「この反応から一歩ひき、広がりのある<つながりの意識>に入れるだろうか ?」
「相手や状況に対して、自分の何かを投影していることはあるだろうか?」
「自分自身に理解と優しさを向けるのと同じように、相手や状況に対しても
理解と優しさを向けることはできるだろうか?」
そうして、湧き上がってくる心の声や、身体の感覚などに対して
リラックスして注意を向けてみます。
禅において大切にされているのが、
「わからなさに自分を明け渡す」ということ。
「分かり合えない」ということを受け入れた上で、そこから
相手の人生の物語の背景や、分かり合えないもの同士からなる
「わたしたち(We)」の領域で起こっていることに対して
慈愛を持てるような可能性を探っていきます。
折り合いをつけるというのは、ネガティブなものではなく、
一人では到達できない視点・在り方にたどり着くための
創造的なプロセスで、その根底には、相手と創り上げる
「わたしたち(We)」の領域を大切にしたいという想い。
そのプロセスそのものを大切にし、そこから、
共にあるための可能性や、新しいあり方を見つけていきます。
私が今回、個人的に大切にしたいなぁと思った学びは、
相手と本当の意味で深くつながりたい時は、
「わかり合いたい」という想いだけにとらわれず、
「わからなさ」そのものを大切にする、ということ。
過去の経験では、「分かり合えるはず」という期待のせいで、
おたがいに意見の押しつけや勝手な推測、苛立ちなどがおこり、
関係がぎくしゃくしてしまった、ということもありました。
「自分にはわからない世界がある」ということを
お互いが受け入れて初めて、自分の心の声を脇に置いて、
好奇心を持って、謙虚に相手の言葉に耳を傾けることができるもの。
私の主観では捉えきれない、この複雑で多様な世界を
相手の主観が、別の角度から捉えてくれているからこそ
自分が認知できる世界が、より豊かになっていく。
分からないけど愛する、のではなく、
分からないから愛する。
リレーショナル・マインドフルネスを通して、
あらためて、こういったあり方を大切にしたいなぁと
気づきました。
(つづく)