(前回の続きです)
相手との対話を通して、自分の心の中で
相手や目の前の状況に手を差しのべたい気持ちがわいた時、
それが<つながりの意識>からきているのか、それとも
<小さな自己>の意図や願望によるものなのかを
いろんな角度から自分自身の心に深く聴いていくことが大切です。
ここでは、この点について、少し詳しく書いてみたいと思います。
例えば、友人が何らかの状況下でもがいていて
相手からその話を聞いて、助けになりたいと思うとき。
(注)ここでは、事故や火事といった状況ではなく、
悩みやトラブルなどを抱えた相手を想像してみます。
この時、相手の状況を聞くやいなや、
「どうにかしなくちゃ!」という衝動性と共に
何かの引き金が引かれるがごとく、相手を変えようとしたり、
アドバイスしようとしたり、コントロールしようとしてしまうのは、
たいてい、<小さな自己>の何かしらの意図が混じっているもの。
<小さな自己>は、それをすれば一旦は気分が満たされるけど
結局は、状況をさらに複雑にしてしまったり、長引かせたり、
相手が状況に対して健全に対処するプロセスの邪魔になったりして、
長い目で見ると、あまり助けにならないことが多い。
<小さな自己(分離の意識)>が相手の役に立とうとする時、
大きく分けて、2つの罠が潜んでいることがあります。
1つ目は、その<小さな自己>が、
「相手にはその状況を乗り越える能力や経験がない」
という無意識の思い込みを抱えていたり、
相手の本当の力を信頼していない、ということ。
それゆえに、自分の過去の経験から導き出された
アドバイスや解決策を押し付けてしまいがち。
ここには、無意識下での過剰や自信や、
「何かが間違っているに違いない」という決めつけ、
相手より優れた自分でいたいという願望、そして
感謝されたい、尊敬されたいという意図などが
隠れていたりします。
2つ目は、<小さな自己>が、相手の痛みと共にあることや
自分自身の中に湧いてくる不快な感情を避けるために、
サバイバル行為、逃避行為として、表面的なレベルで
相手を助けようとしている、ということ。
「とりあえず、一緒に呑んで忘れようよ!」
「ほら、アイスクリーム買ってきたから」
みたいな形で、相手を一時的に慰めようとをすることは
日常的にありがちなことなのだけど、これは
<小さな自己>が相手の痛みから目を背けようとしている状態です。
一方で、相手の状況に深く耳を傾けた上で、
<小さな自己>の無意識の意図からではなく、
<つながりの意識>から行動に移すという選択肢もあります。
この時私たちは、状況をすぐ解決すべきだと捉えるかわりに、
相手の困難な状況を尊重し、思いやりをもって受けいれ、
「今ここ」で、まずは相手の痛みと共にあろうとします。
状況の結果も、次に起こることも分からないし、
何が相手にとってのベストなのかも分からない。
けれど、その困難さや「分からなさ」を受けとめ、共にある。
そして「相手にはこの困難な状況に対応する力がある」
ということへの深い信頼をこちらがもっていることで、
相手は、状況に向き合うための心のスペースをもてたり
安心して弱さや正直さを出せたり、リラックスして
よりクリアな洞察を得ることができたりしていきます。
そして自分自身も、<つながりの意識>を保った上で、
適切なタイミングで、自分の正直な思いを相手に伝えたり、
健全な形で手を差し伸べたり、何かを決断したり
必要だと思う行動をとっていきます。
自分の大切な人の「痛み」は、自分にとっても辛く、
その人の支えになってあげたいと思うのは、
とても自然な気持ちだと思います。
けれどこの時、どういう意図で、どういう行動を選択するかで、
相手と自分の関係性というものが、大きく変わってくるもの。
「手を差し伸べたい気持ちの奥にある、本当の動機はなんだろう?」
「この行動は、自分の恐れやコントロールからきているのか、
それとも、思いやりと信頼からなのか?」
「状況を変えようとしているか、それとも、
受け入れようとしているか?」
「この行動をするとき、自分は力んでいるだろうか、
それとも一歩引いて、リラックスできているいるだろうか?」
「ここにいるのは<小さな自己>だろうか、それとも
<つながった自己>だろうか?」
「今ここ」で、つながりの意識にいること。
相手と自分にたいして、深く聴くこと。
そして、「わからなさ」を大切にすること。
こうういったことを重ねていくことで、ゆくゆくは
自分と相手からなる<つながりの領域>において、
思いやりや愛、信頼などの厚みが増していくのだと思います。
たとえ、相手のことを完全にわからなくても、
自分は、相手のために「在る」ことができる、ということ。
わたしは、この視点を大切にしていきたいなぁ。
リレーショナル・マインドフルネス(5)<手を差し伸べたいとき>
/カテゴリ: 学びと活動の記録(前回の続きです)
相手との対話を通して、自分の心の中で
相手や目の前の状況に手を差しのべたい気持ちがわいた時、
それが<つながりの意識>からきているのか、それとも
<小さな自己>の意図や願望によるものなのかを
いろんな角度から自分自身の心に深く聴いていくことが大切です。
ここでは、この点について、少し詳しく書いてみたいと思います。
例えば、友人が何らかの状況下でもがいていて
相手からその話を聞いて、助けになりたいと思うとき。
(注)ここでは、事故や火事といった状況ではなく、
悩みやトラブルなどを抱えた相手を想像してみます。
この時、相手の状況を聞くやいなや、
「どうにかしなくちゃ!」という衝動性と共に
何かの引き金が引かれるがごとく、相手を変えようとしたり、
アドバイスしようとしたり、コントロールしようとしてしまうのは、
たいてい、<小さな自己>の何かしらの意図が混じっているもの。
<小さな自己>は、それをすれば一旦は気分が満たされるけど
結局は、状況をさらに複雑にしてしまったり、長引かせたり、
相手が状況に対して健全に対処するプロセスの邪魔になったりして、
長い目で見ると、あまり助けにならないことが多い。
<小さな自己(分離の意識)>が相手の役に立とうとする時、
大きく分けて、2つの罠が潜んでいることがあります。
1つ目は、その<小さな自己>が、
「相手にはその状況を乗り越える能力や経験がない」
という無意識の思い込みを抱えていたり、
相手の本当の力を信頼していない、ということ。
それゆえに、自分の過去の経験から導き出された
アドバイスや解決策を押し付けてしまいがち。
ここには、無意識下での過剰や自信や、
「何かが間違っているに違いない」という決めつけ、
相手より優れた自分でいたいという願望、そして
感謝されたい、尊敬されたいという意図などが
隠れていたりします。
2つ目は、<小さな自己>が、相手の痛みと共にあることや
自分自身の中に湧いてくる不快な感情を避けるために、
サバイバル行為、逃避行為として、表面的なレベルで
相手を助けようとしている、ということ。
「とりあえず、一緒に呑んで忘れようよ!」
「ほら、アイスクリーム買ってきたから」
みたいな形で、相手を一時的に慰めようとをすることは
日常的にありがちなことなのだけど、これは
<小さな自己>が相手の痛みから目を背けようとしている状態です。
一方で、相手の状況に深く耳を傾けた上で、
<小さな自己>の無意識の意図からではなく、
<つながりの意識>から行動に移すという選択肢もあります。
この時私たちは、状況をすぐ解決すべきだと捉えるかわりに、
相手の困難な状況を尊重し、思いやりをもって受けいれ、
「今ここ」で、まずは相手の痛みと共にあろうとします。
状況の結果も、次に起こることも分からないし、
何が相手にとってのベストなのかも分からない。
けれど、その困難さや「分からなさ」を受けとめ、共にある。
そして「相手にはこの困難な状況に対応する力がある」
ということへの深い信頼をこちらがもっていることで、
相手は、状況に向き合うための心のスペースをもてたり
安心して弱さや正直さを出せたり、リラックスして
よりクリアな洞察を得ることができたりしていきます。
そして自分自身も、<つながりの意識>を保った上で、
適切なタイミングで、自分の正直な思いを相手に伝えたり、
健全な形で手を差し伸べたり、何かを決断したり
必要だと思う行動をとっていきます。
自分の大切な人の「痛み」は、自分にとっても辛く、
その人の支えになってあげたいと思うのは、
とても自然な気持ちだと思います。
けれどこの時、どういう意図で、どういう行動を選択するかで、
相手と自分の関係性というものが、大きく変わってくるもの。
「手を差し伸べたい気持ちの奥にある、本当の動機はなんだろう?」
「この行動は、自分の恐れやコントロールからきているのか、
それとも、思いやりと信頼からなのか?」
「状況を変えようとしているか、それとも、
受け入れようとしているか?」
「この行動をするとき、自分は力んでいるだろうか、
それとも一歩引いて、リラックスできているいるだろうか?」
「ここにいるのは<小さな自己>だろうか、それとも
<つながった自己>だろうか?」
「今ここ」で、つながりの意識にいること。
相手と自分にたいして、深く聴くこと。
そして、「わからなさ」を大切にすること。
こうういったことを重ねていくことで、ゆくゆくは
自分と相手からなる<つながりの領域>において、
思いやりや愛、信頼などの厚みが増していくのだと思います。
たとえ、相手のことを完全にわからなくても、
自分は、相手のために「在る」ことができる、ということ。
わたしは、この視点を大切にしていきたいなぁ。